「生きている」のではなく「生かされている」を考える時、魚の「スイミー」を思い出す 

ミニマル思考

仏教系の読み物や、お坊さんの説法などで「私たちは生かされている」という言い回しを目にする/耳にすることがあると思います。

仏教媒体を通じて「生かされている」と言われると、なんか思想的、哲学的な感じがするかもしれませんが、なんてことはない、リアルな生物学なんですよね。

私は、よくぶっ飛んだ思考にタイムスリップするのですが、

ヒトは、それぞれに核を持つ約37兆個の細胞で構成されています。

一つ一つの細胞は、「自分の意思」ではコントロールすることができず、各々で生きています。

「自分」というものは実体がなく、約37兆個の細胞の寄せ集め、集合体に過ぎず、「スイミー」が指揮を取った小魚集団で形作った巨大魚みたいなものなんです。

考えてみれば納得の事実として、

自分の意思で、心臓を動かしたり止めたりすることができない

自分の意思で、汗をかくことができない

自分の意思で、爪を伸ばすことができない

自分の意思で、眠りにつくことができない

自分の意思で、目覚めることができない

自分の意思で、食べ物を消化することができない

自分の意思で、ウイルスを退治することができない

自分の意思で、ケガを治すことはできない

などなど

もっと言うと、「自分の意思」というものでさえ、脳細胞が生み出す産物であり、「自分」なんてどこにもないのです。

すべて、各々の細胞の働きであり、各々の細胞の力に頼りっきりなのです。

なので、「自分」というものの役割や、できることといえば、

各々の細胞に必要な栄養を与え

休息を与え

本来の役割・能力を生かしてあげるような活動機会を提供し(例えば、筋肉には運動の機会とか)

各々の細胞が苦しむことなく(例えば、毒であるアルコールや有害物質を与えないなど)

快適に過ごせるよう

外からサポートしてあげる

ことなのです。

「自分」を形作る細胞たちを傷つけることなく大切にしてあげることなのです。

もし「自分」の慢心から細胞たちを苦しめるような行動を取っているなら、その事実に早く気づいて、その行動をすぐにでもやめてあげることなのです。

細胞からの悲鳴に耳を傾け、苦しんだままで放置するのはなく、すぐに対応してあげることなのです。

でないと細胞たちがかわいそうだと思いませんか。

さらに視野を拡大すると、

「自分」の細胞たちと共存して助け合っている常在菌や腸内細菌が喜ぶことをしてあげることも必要なのです。

このような視点に立つと、

「生かされている」という言葉がすごく現実的で腹落ちし、自分のすべきことがクリアになってくるのではないでしょうか。

日常のどんな悩みも、遭遇する問題も、細胞レベルに思いを馳せると異次元にタイムスリップし、「自分」というものを客観的に眺められるようになります。

ここで、仏道や禅道とシンクロするのですが、私はどちらかというと生物学的な納得から「生かされている」と理解しています。

嫌とも言えず、逃げ出すこともできず、身体というものに閉じ込められて、けなげに懸命に黙々と働く細胞たちに、「自分」というものはまさに「生かされている」のであり、細胞や同居人たちに感謝し、彼らが快適に過ごせるよう精進したいものです。

また、このような視点に立つと、地球上の全ての生き物は、細胞の集まり方が異なるだけで、優劣なくみな平等に大切な存在であり、ヒトもその他大勢の一種に過ぎないので、ヒトだからといって傲慢にならず、謙虚に振る舞いたいものです。

みんなの地球

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